「忘」は去声か平声か

 『千字文』の22行目「知過必改,得能莫忘」の「忘」字の説明で、以前、次のように書きました。

 「忘」は難題です。この字を調べると「wang4 忘记,不记得,遗漏」とあります。これでも意味は通じます。しかし、以前にも指摘したとおり、この前後、偶数句の最後の字は、すべて現代北京音でいうと「ang」の平声を含む音で韻を踏んでいます。「忘」が「wang4」(中古音の去声)であるとすると、韻を踏まないことになります。そこで、ここはどうしても平声(現代北京音の第1声か第2声)で読みたいところです。『漢語大詞典』によると、「通"亡"」とあり「喪失,失去」の義が載っています。ここでは、これに従いましょう。「亡 一 wang2」の第1義の「引」(派生義)に「失去:亡羊补牢。唇亡齿寒」とあります。これを採りましょう。

 つまり、「忘」は現代北京音では第4声(去声)の読みしかないのですが、『千字文』では間違いなく平声で読ませているわけです。
 この字について、もう一度検討してみたいと思います。まず、電子版の「広韻検索システム」を引いてみましょう。

「忘」 1例
去声 41:漾 巫放切 44丁裏07行目

 残念ながら、去声の例しか出てきません。
 ところが、『広韻』そのものに当たってみると、次のようにあります。

忘、遺亡。又音亡。

 この「又音」とは、「もう一つの音」を示したものですから、「亡」を「広韻検索システム」で見ると、次のようにあります。

「亡」 1例
下平 10:陽 武方切 23丁表09行目

 「忘」に平声の読みがあったことがわかります。
 昨日、孫玉文『漢語変調構詞研究』を紹介しましたが、その中に、「忘」字の平声と去声の関係について説明があります。

 原始詞としては、経験したことを記憶の中にとどめないようにすることを意味し、動詞で、「武方切」(平声)。
 滋生詞としては、特に、無意識に、経験したことを記憶にとどめないようにすること、遺忘すること、忘れてしまうことを意味し、ある種、病的な状態であり、動詞で、「巫放切」(去声)。

 そして、『経典釈文』の用例を検討してみても、特に病的な「健忘症」について去声で読んだことが分かり、また、漢代・魏晋時代の韻文を調べると、ほとんどの例で平声として韻を踏んでいることが確認できる、という結果も述べられています。
 これによると『千字文』の「忘」は、平声の「原始詞」として用いられていたわけですね。昨日紹介した「変調構詞」説の応用例として挙げてみました。1月18日のエントリーでは「失去」という訓詁を与えましたが、無理をしなくても、平声で読めそうですね。辞書には採られてはいませんが。