「変調構詞」の考え方

 孫玉文氏の『漢語変調構詞研究』(北京大学出版社、2000年)という書物を読みました。ずいぶん前に出版されたもので、いまでは増訂本(商務印書館、2007年)も出ているそうですが、今回読んだのは初版の方です。
 さて、書名にもなっている「変調構詞」とは、中国語学の専門家以外にはあまり聞き慣れない術語でしょう。私も読んではじめて理解できたので、自分なりに説明してみます。
 「詞」というのは、日本語で言う「語」、英語で言えば"word"に当たる言語の単位であり、「構詞」とは「語の生成」のことです。英語を例に取ると、happyという形容詞は、副詞化してhappilyとなり、名詞化してhappinessになるという具合に、別の語を生成します。これと同じように漢語も「語を生成する」というのが、「構詞」の考え方です。
 そしてさらに、「声調を変えることにより語を生成する」のが、「変調構詞」です。この考え方によると、語にはもともとの意味を持つ「原始詞」と、それから派生した「滋生詞」があり、前者の声調を変えることにより後者を生じると言います。たとえば、『千字文』の第11行目に「始制文字,乃服衣裳」と出てきた「衣」を例に見てみましょう。

「原始詞」 意味:衣服       品詞:名詞   声調:平声
「滋生詞」 意味:服を着せる   品詞:動詞   声調:去声

 「文言基礎」でもたびたび、「声調による読み分け」を説明してきました。声調はこのサイトにとっての大きな関心事のひとつです。この「変調構詞」の考え方はさらに踏み込んで、「ある語が、(別の声調を持つ)別の語を生成する」現象として理解しています。
 ただ、「別の声調を持つ」「別の語」だといったところで、漢字で書けば、両者はまったく同じですから、読み分け自体に意味を認めない学者も多く存在します。漢字の読み分けに関するまとまった記述は、古代の文献には存在せず、南北朝末の『切韻』や『経典釈文』くらいしかないのです。
 特に、顧炎武をはじめとする清朝の学者たちは、「読み分けなんていうものは、六朝時代(中古)の儒者たちがでっちあげた読み癖にすぎない」といって意味を認めない人が多いのです。「そもそも古代には声調なんか存在しなかった」と主張する人もいます。
 この点については、私もかなり気にしてきました。偉い学者たちにそう言い切られると、ちょっと気後れしますが、「読み分けなど無意味」とは、何とも釈然としません。これに対し、孫氏の立場は、「上古には声調が確かにあったし、むしろ情勢としては、上古において明確であった変調構詞が中古において曖昧となったが、それが中古の時代にかろうじて書き留められた」「決して学者が勝手にでっちあげた読み方などではなく、古代の口語に基づく現象である」というものです(その論証については本書の第2章第1節を参照)。私は孫氏の基本的立場は正しいと思いました。
 この「変調構詞」も「形態論」morphologyの一種なのですが、以前コメント欄で少し紹介した金理新氏のmorphologyとはかなり違う部分があります(たとえば、金氏は『詩経』時代の漢語に声調が存在したことを認めない、など)。しかし、両者とも「漢字の字面からはうかがい知ることのできない音の細部」を追っている点においては清朝考証学の伝統を継ぎつつも、斬新な仮説を立てて漢語の新たな面目を模索しています。どちらも非常に興味深い研究です。