基礎の古典

 「文言」で書かれた「基本的」文献は、それこそ山ほどあり、また知らなければならない「常識」も、それと同じくらいたくさんあります。
 それ以外に、初学者がとまどうのは、漢字の数の多さでしょう。諸橋『大漢和辞典』には、親文字5万余字(熟語は53万余語)を収録しているとのことです。ハンディな『新華字典』ですら、1万字を収録しています。
 「5万字の漢字の発音と意味を知り、万巻の書を読みこなす」と聞くと、とても尋常の人間がなしうるわざとも思えません。
 このようなわけですから、あまりにも大きな「文言」の海の前に茫然と立ち尽くし、「自分はいつまでも、この中に入っていけないのではないか」と無力感をもち、立ちすくんでしまうのは、当たり前のことです。
 そこで、私は、初歩の段階ではなるべく学習する古典をしぼり、方法を簡潔にするのがよいと思います。範囲があらかじめ決まっていれば、勇気もわいてきます。
 対象とする古典は、識字書・散文・韻文の三種に分け、それぞれ以下のものを学びます。

  • 識字書。『千字文』を学びます。
  • 散文。『論語』二十篇のうち、学而篇・為政篇の二篇を学びます。
  • 韻文。『詩経』の詩、三百五篇のうち、数篇を学びます。

 1年間の時間をかけて学ぶには、まず適当な量ではないでしょうか?『千字文』から始めますが、ある程度慣れたところで、『論語』を同時進行で開始し、『詩経』の学習は後回しにしてよいと思います。
 また、「方法を簡潔にする」という点については、「字の発音と意味とを覚えることに主眼をおき、なめらかに読み上げることを目標とする」ということです。意味というと、当然、解釈が入ってきます。特に『論語』と『詩経』の解釈はそれ自体が学問になるくらいのもので、深入りすると底なし沼にはまりますから、ごく表面的な理解にとどめます。「文法」なども、まずはごく安易に考えておきましょう(「文法」についてはあらためて説明しますが)。
 「素読」のような感じ、ととらえてもらうとよいかも知れません。「意味は深く考えずに、音を読み上げる」わけです。「子供じみている」といって嫌う人がいますが、初歩においては、子供のようなやり方こそが大切なのです。「文言」は外国語なのですから、一外国人として、素直に学びましょう。やってみれば、案外と楽しいものです。