文法と「対」

 「単漢字と熟語」のエントリーでは、文法的な説明を少ししました。これを「分かり易い」と感じる人と、「訳が分からない」と感じる人と、二通りの人がいます。日本語の古文の文法でも同じですね。分かる人と分からない人がいます。ここでは、特に「分からない」人のために、「とりあえずは、分からなくてよい」という話をしたいと思います。
 中国は長大な漢字文明を伝えていますが、実はつい百年前まで、中国語に「文法」など存在しなかったのです。1898年に馬建忠という人が、西洋語の語学研究に倣って『馬氏文通』という文法書を作ったのが最初です(この本はこの本で、実に興味深いものなので、またの機会にとりあげましょう)。
 それまでは、品詞という概念さえ希薄で、相当の文人でも、品詞について考えたことのある人はまれだったでしょう。それでも人々は間違えずに文章を作れましたし、現代人がいう「文法的誤り」をたやすく見抜くこともできたのです。なぜでしょうか?
 その秘密は「対(つい)」にあります。1500年前、『千字文』の書かれた頃、識字階級の家庭に子供がいたとしましょう。識字書の学習を終え、少し古典を学ぶと、今度は詩文を作る練習が始まります。子供がいきなり名作を作れるわけはありませんから、簡単な「対」を作る練習をします。
 まずは単漢字からです。「天」の対は?「地」です。「寒」の対は?「暑」です。「東」の対は?「西」です。簡単です。
 次に「天玄」の対は?「地黄」となります。「寒來」の対は?「暑往」となります。どんどん複雑にしてゆくと、「樂殊貴賤」の対、「禮別尊卑」も作れるようになります。いわゆる「対句」です。
 「樂殊貴賤、禮別尊卑」の場合、「樂」「禮」(ともに名詞)、「殊」「別」(ともに動詞)、「貴賤」「尊卑」(ともに名詞)と、完全に品詞が一致しています。このように、「対句」を作ることは、知らず知らずのうちに品詞を分別することだったのです。異なる品詞は、「対にならない」と感じられるのです。
 私が思うに、ある程度の「文言」を暗誦し、「対」を知ることが大切です。それを欠いた段階で「文法」を詰め込んでも、効果はほとんどありません。日本語でいえば、「百人一首」を知っている人には、古典文法はぴんとくるでしょうが、何も知らない人に文法を押しつけても無意味です。
 かつての文人に倣い、対を覚え、考えてゆきましょう。「天地玄黃、宇宙洪荒」です。『千字文』を始めたばかりのいま、文法の説明が分からなくても、何の問題もありません。当面、「漢字一字の単語と、漢字二字の単語があるんだな」というような理解でもかまいません。
 とはいえ、文法を知りたい人を無視するわけにもゆきません。その説明も適宜したいと思います。